Adminではないけれど [隠居生活編]

主に無職の身辺雑記、たまに若い頃の自慢話。

写メが送れない

20歳ほど下のいとこと話をする機会があった.

あることが話題になり、興味を持ったため、「それ、写真に撮って見せてよ」と頼んだ.彼は「まあ、いいですけど……」と言葉を濁す.

しばらくしたら、向こうから電話がかかってきた.「写真は撮ったんですが、どうやって送ればいいですか?」

「普通に、メールに添付して送ってくれたらいいけど」
「はあ、メールですか……」
「何か問題ある?」
「いや、メールって、あんまりしたことないんで」
「え、写真を撮って人に送るって、若い君らの方がよくやるんじゃないかと思ってたけど」
「それはやります」
「いつもはどうやって送ってるの?」
「それはLINEで……」
「ごめん。俺がLINEやってねーわ」

働き盛りの社会人が、まさかメールがわからないとは思わなかった.もっとも会社勤めではなく、自営だから、そこは少し違う.それでも、お客様や関係する業者の人と連絡を取り合うこともあるだろうが、全部LINEでやっているのだろうか.

以前持っていたLINEアカウントは削除してしまったが、私もLINEを再開した方がいいのか.


FunkyFocusによるPixabayからの画像

「徒然草」が読めますか

学校で何を教えるべきか.旧態依然とした内容でよしとせず、時代に合わせてフレキシブルに変えていく必要はあるだろう.識者には、そのための議論を大いにしていただきたいと思っている.ただし、定期的に出てくる、こんなことを勉強して何になる、何の役にも立たない、という類の意見は、私の見聞する限りでは、その分野が苦手だった人が、負け惜しみか、劣等感の裏返しかわからないが、そうした個人的な感情で言っているものがほとんどのようだ.

槍玉に挙げられるのは数学が圧倒的に多いと感じるが、しばらく前から、古文・漢文も不要だという意見が出てきているようだ.自国民にとって最も大切な国語の勉強を削ってどうすると思うが、現代国語はともかく、現在使われていない言葉を今さら習っても仕方がないという.

古文・漢文を「現在使われていない言葉」と言い切ってしまう人は、中学生に戻って勉強をやり直した方がいいと思うが、言葉遣いよりも、古典作品それ自体に触れることの価値は、いくら言葉を費やしても足りない.

私が自分の個人サイトを開設したのは1998年.1990年代の前半くらいから、プログラマーや大学の先生などが、コツコツとhtmlを手打ちして個人サイトを開設し始めた.htmlはそう難しくはないが、恐ろしく面倒である.プロバイダと契約する必要もある.一般の人間には敷居が高かった.

1997年9月、ジオシティーズが誰でも無料でホームページが開設できるサービスを開始.これを利用して個人サイトを作る人が一気に増えた.現在のブログとは少し違うが、とにかく某(なにがし)か思うことを文章にして公開するということが手軽にできるようになったのだ.

サイトを作れば名称を決めなければならぬ.「○○のホームパージ」のような何の工夫もない名称も当初は多かったけれど、一方で、ナントカ徒然草、とか、徒然なるままにナントカ、という「徒然」を含めた名称がたくさん目についた.それらを眺めて、深く感動したことを今でも覚えている.

エンターテイメントの最も重要なことは、一般庶民に言葉(表現手段)を与えてくれることだと思っている.誰でも自在に言葉を紡ぎ出せるというものではない.が、何かを言いたい.何かを伝えたい.その時に、過去に読んだ本に使われていた言葉がしっくりくると思ったら、それを使って表現できるのだ.

「徒然」などという言葉は日常生活では使わない.徒然草を愛読書として持ち歩いている人も少なかろう.それでも、これといった明確なテーマもなく、頭に思い浮かんだことを表現するのに、「徒然」ほどぴったりな言葉はないと、少なからぬ日本人が思ったのだ.それを見た人も、振り仮名が振っていなくても読めるし、内容の想像がつく.

そういう古典を持っているのは、素晴らしいことだと思うのだ.


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数学は世の中に必要か

こんなことは学校で教える必要はない、という議論は昔からあって、数学がやり玉に挙げられることが多かった.もう20年か、30年くらい前の記憶だが、テレビでさる高名な年輩の作家が登場し、「私なんてね、この年齢まで生きてきて、これまで使った数学といえば足し算引き算掛け算割り算だけですよ。計算ができないと、買い物する時に困りますけどね、それ以外なんにも使いませんでした」と話していたことを覚えている。その人は、小学校の算数はともかく、中学・高校で数学を教えるのは時間の無駄である、あんなものは習ったところで何の役にも立たない、ということを主張していた.

良い世の中だなあ、としみじみと実感した.最低限の社会生活を営める能力と、ひとつふたつの特技があれば不自由なく生きて行かれる、それは理想社会だ.キリギリスが冬に飢え死にしたのは、蟻がせっせと働いている時に遊んでいたからではない.社会が貧しかったから.もし社会が十分に豊かであれば、音楽を演奏するキリギリスはなんらかの報酬を受け取り、それで冬には食料を買えただろう.その作家が、数学を知らなくても困らなかったと公言できる世であることを、私たちは寿(ことほ)がなければならない.

ただし、不要だと主張するならば、もしそのことを知り、十分に理解していたら、世の中がどれだけ変るか、ということに思いを馳せる必要がある.その分野が苦手で、苦労した恨みつらみを込めて言っているだけなら、説得力はない.それは単なる劣等感の裏返しだ.

私事で恐縮だが(とはいえ、このブログには私事しか書いていないのだが)、二年ほど前から親の具合がどんどん悪くなり、施設への入所を真剣に検討するようになった.それまで、そのようなことを具体的に考えたことがなかったから、施設といってもどのような種類があるのか、公的なもの、民間経営のもの、短期の預け入れ、長期または永久の入所など、病院や市役所で説明を受けたり、Webサイトをあちこち覗いてみたり、資料を請求して取り寄せたり、見学に行ったりした.

そのような生活を送るようになってから、やたらに老人介護施設が目につくようになった.近所にも何軒もあるし、実家の近くにもあるし、買い物などで遠くに出かけても、往復の道路わきに次から次へと案内が目に入る.世の中にこんなにたくさんの施設があることに驚愕した.こんなにたくさん、あちこちにあるにも関わらず、これまで全く目に入っていなかったのだ.シャーロック・ホームズに言わせれば、「景色を見ているだけで、観察をしていないから」ということになるのだろう.

三角関数だろうが微積分だろうが、知らなくても生きて行かれる.苦手な人は無理に学ぶには及ばない.しかし、もし十分な知識があれば、内容を理解していれば、役に立つ場面はいくらでも体験するはず.知識がない人は、そのような場面を素通りしてしまうだけだ.

私は少なくとも、下記のtweetを見てげらげら笑える程度には三角関数のことを知っていてよかったなあ、しあわせだなあと思っている.

三角関数より金融教育なのか?

藤巻健太衆議院議員日本維新の会)が5月17日、「三角関数よりも金融経済を学ぶべき」と金融教育をテーマに財務金融委員会で議論したことをtwitterで発言.これはたちまち多くの批判にさらされることとなった.三角関数を学ぶ必要がないとはなんということか、現代社会でどれほど役立っているか知らないのか、と.

藤巻健太議員の前後のtweetに目を通したが、その主張する内容の是非はともかく、彼が三角関数についてあまりよくご存知ないらしいことはわかった.もっとも、ご本人は高校時代には数学は得意で三角関数もちゃんと勉強したと述べているが.それよりも、価格の説明にアダム・スミスを引用していたのに驚いた.アダム・スミスは偉大な学者だが、18世紀の人.現在の高度資本主義社会は彼の想定した社会とは乖離し過ぎている.失礼を顧みず言うならば、議員は学生時代は秀才だったのだろうが、習ったことが身についていない印象を受ける.

と、つい嫌味を言いたくなるような暴論ではあるのだが、三角関数を擁護する人のtweetやブログを読んでも、私自身、そうだよね三角関数は必要だよねという気にはなれなかった.パソコンやタブレットで絵を描くにも、ゲームをするにも、三角関数は大活躍しているそうだが、ゲームやお絵かきソフトを開発する人はともかく、それを利用する人に三角関数の知識は必要なかろう.藤巻議員を擁護する気はないが、この点は藤巻議員の主張に一理ある.

三角関数をディスったのがよくないので、単に金融の知識も必要と主張すればよかった、との意見も多かったが、授業時間も、子どものキャパシティにも限度がある.必要と思われるものをすべて授業に詰め込むことはできない.長年学校で教えて来たことをやめるとなると、抵抗勢力は大きいだろうが、新しい世の中に対応してくためには、レガシーを大胆に切り捨てる勇気も必要.藤巻議員の主張にどの程度の妥当性があるかどうかはともかく、取捨選択については大いに議論がなされるべきだ.

今回の一連の流れで、三角関数というと三角形を思い浮かべる人が多いらしいことに気づいた.三角関数は、三角形ではなく、円の巻数だと理解した方が、何の話をしているのかわかりやすい.原点を中心とし、半径1の円の円周上の点を座標で表わすと(consθ, sinθ)となり、原点からこの点に結んだ線を延長してx=1の直線と交わった点が(1, tanθ)である.円周上の点をぐるぐる回すと、tanは-∞から∞まですごい勢いで動くが、sinとcosは-1から+1の間を行ったり来たりするだけ.これが波.

文章で書くとわかりにくいが、図とグラフを書けばすぐにわかる.これが飲み込めれば、高校で習う範囲の三角関数の半分は征服したも同然.計算練習はしなければいけないけど.計算は面倒だが概念の理解はそんなに難しいものではないはず.三角関数を削っても、金融経済を学ぶ時間が捻出できるかどうか.

ジェンダーに配慮した英語表現

女性の警官を含めてpolicemanとする表現は好ましくないからpolice officerとしよう、と主張する人が少なからずいることを、私は中高生の頃に知っていた.40年以上も前だ.女性をpolicemanと呼ぶからおかしいので、男性に限定し、女性警察官はpolicewomanと呼べばいい、という中庸的な説があることも知っていた。学校の教科書にはpolicemanしか出て来ないことも.

「警官=policeman」はよくない、と考えていた人が、実際のところどのくらいいたのかはわからないが、policewomanやpolice officerという言葉は、少なくとも1970年代の後半には既にあったのだ.また、日本の英語初学者にもそのような説明がなされる程度には、普及していたということだ.

私は日本語でも「彼ら」という言葉が好きではなく、「彼ら(彼女らかも知れないが)」のような書き方をしたり、「その人たち」のような言葉を選んだり、自分を納得させる言葉遣いに四苦八苦していた時だったから、この考え方はすんなりと納得できた.

大学生の時、「理論経済学」という科目の教科書がポール・A・サムエルソンの「経済学」だった.ポール・A・サムエルソンはノーベル経済学賞を受賞(1970年)した世界的な学者.この「経済学」という本は世界中で経済学の教科書に使われており、サムエルソンはそのため、常に最新の情報を盛り込もうと、三年の一度の改訂を続けていた.私が利用したのは1981年刊の11版.

訳者の前書きに11版での改訂内容がざっと紹介されているが、その中で、仮にも男女差別を思わせる表現は徹底的に払拭されていると述べている.「policemanをpolice officerと書き換える程度のことではなく、ape-menをape-hominoidsとしたり、Jack-of-all-tradesをJack-and-Jill-of-all-tradesにしたり、paternalisticで十分意味が通じるところをpaternalistic and maternalisticとしたりしている」と例を挙げ、これは「ウーマン・リブ意識の強い次女マーガレットの担当」と決めつけ、日本語訳には反映していないと明言している.訳を担当したの都留重人は、当時の日本を代表する経済学者.当時69歳の都留教授にとって、そんなことはどうでもよかったのだろう.

1985年に、S・ジョンソンの「1分間セールスマン」という本が出版された.まだ学生であったが、ビジネス本に興味を持っていた私は、S・ジョンソンが何冊かの知られたビジネス本を著した人であることを知っていたし、魅惑的なタイトルでもあり、すぐに買い求めた.原題は「The One Minute Sales Person」という.英語では、既にセールス・パーソンと言うのかと驚き、かつ、なぜ日本語で「セールスマン」という語を使ったのかと、イラっとしたことを覚えている.ちなみに内容は、なるほどと思えることも書いてあるのだが、言葉遊びをしているだけで、本質的なことを語っていないようにも感じられた.S・ジョンソンは2000年に「チーズはどこへ消えた?」という本を著した人だといえば、その胡散臭さがご理解いただけると思う.

さて2022年.「中高生の基礎英語 in English」で講師の人たちが聴取者に呼び掛ける時は、Listeners(たまにEveryone)という言葉を使う.「ラジオ英会話」では、大西先生も、秋野ろーざさんも、クリスさんも、大抵 Guys と言う.ちょっと気になる.「ラジオビジネス英語」ではどうだったかと、何日分か聞いてみたのだが、そもそもこの番組では、そのようにフレンドリーに聴取者へ呼び掛けたりはしていないのであった.


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