Adminではないけれど [隠居生活編]

主に無職の身辺雑記、たまに若い頃の自慢話。

石井いさみ逝去

2022年9月17日、漫画家の石井いさみが急性心不全により逝去.80歳.

「くたばれ!! 涙くん」「ケンカの聖書」「すてごろ専科」など、いろいろ読んだ作品はあれど、なんといっても印象の残るのは「750ライダー」だ.

自分は高校時代、仲のいい友人も彼女もおらず、息苦しさを感じながら日々を過ごしていた.この漫画の登場人物こそが自分の代わりに青春を謳歌してくれている、と感じることに救いを求めていた.毎週金曜日にこの作品を読むのだけが楽しみだった(金曜日発売の「週刊少年チャンピオン」に掲載されていたため).

もちろん感情移入していたのは、初期のワイルドな早川光であり、彼をそっと慕う委員長だ.ところがご存知の方はご存知の通り、途中から急激に作風が変化し、ニヤけた顔で委員長にデレデレするだけのほのぼの学園漫画に変わってしまった.自分の青春は終わったと思った.

その後、「月とすっぽん」や「一・二の三四郎」など、自分の青春を投影できる作品を探し続けたが見つからない.結局、自分の人生は自分が生きなければならず、誰かが、少なくとも漫画の主人公が代わりに生きてはくれないのだ、ということを悟るのは、もう少しあとの話.

単行本は9巻まで買った.少し読み返してみたが、つくづく名作だと思う.この巻あたりまでは.

個人印刷小史

学校の先生が生徒や父母に案内を配布する場合。部活動などで部員に資料を配布する、イベントで来客に注意事項を渡すなど、要は素人が何十人かの人に同じ内容のものを配布しようとした場合、どういうやり方だったかを振り返ってみる.

自分の小学生時代は、もう50年以上前のことだが、こうした場合は「ガリ版印刷」だった.

ガリ版印刷とは、B4サイズより一回り大きいロウ原紙に、文字や絵図を書いて版下とするもの.ガリ版と呼ばれたやすり盤(砥石のような石でできたやすり)の上にロウ原紙を置き、鉄筆(文字通り、鉄の筆)で線を引くと、その部分がロウ原紙から削られる.その後、ロウ原紙を印刷用紙の上に置き、上からローラーでインクを塗ると、ロウが削られた箇所が印刷される、という仕組みである。やすりの上で鉄筆を動かすとガリガリ音がするところから、ガリ版と呼ばれるようになったとか.

ロウ原紙を印刷台に貼り付けている間は、インキを足せば何枚でも増刷できるが、いったん剥がしてしまうと、二度と印刷はできないという代物だった.

コピー機というものも世の中にはあったけど、当時は「コピーする」ことを「ゼロックスする」と言っていた時代*1.一枚200円くらいだったか.人に配布する資料を人数分コピーする、ということは考えられなかった.

小学校では職員室へ行くと、大半の先生がガリ版を机の上に置き、何か書いていたものだった.が、中学校では職員室でそういう光景を目にした覚えがない.その頃に潮目が変わったのではないか.私より少し年下の人は、ガリ版を知らないかも知れない.

高校生になると、ボールペン原紙が普及した.下敷きの上でボールペンで書けば原紙から削られ、あとはガリ版印刷と同じように印刷に回せる.ガリ版や鉄筆がなくてもよく、何より書くのが楽だった.そのため大量に安価で配布する資料はこの印刷方式が一般的だったが、一方、コピーも安くなった。あちこちにコピー機械が設置され、一枚30円だったと記憶する.レコードの歌詞カードなど、結構気軽にコピーを利用するようになった.

大学生になると、コピーは生協で一枚10円となり、もはや手をインキで汚しながら印刷機を操作する必要がなくなった。さらに、版下を作成するのに手書きではなくワープロまたはパソコンを使うようになり、そうなると人数分をプリントすれば済むようになった。ここに至るまで約10年.劇的な変化だ.

ここから40年、あまり変化がない.今でもコンビニコピーは一枚10円.


*1:複写機を開発したのがゼロックス社だったため、1970年代の半ばくらいまではこう言われていた。キヤノンやリコーが参入するようになって死語になった.

ジャン=リュック・ゴダール逝去

2022年9月13日、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールが自殺幇助(安楽死)により逝去.91歳.自殺幇助は居住しているスイスで認められている.

映画に一家言ある人ならば、口角泡を飛ばして語り出すのだろうが、残念ながら私は語るべき何ものもない.そもそもゴダールの作品には興味がない.興味があるのは「旧友来たる」という松本隆の詞(作曲は加藤和彦)だ.

この作品は、久しぶりに会いに来てくれた友人を歓迎する内容.長く写すとまずいので要約すると、一番は、訪ねてくれた友人に家内を紹介する、籍は入れていないけどと言って。三番では、会社勤めをしている友人に対し自分はその日暮らしの生活だと告げ、今夜は飲み明かそうと誘う.問題は二番.

あの頃は君と一緒にゴダールの映画を見たね
青臭い議論の果てに 酔いどれて歌を歌った

ゴダールのことは知らないけれど、ゴダールの名前をうまく使うなあと思った.気恥ずかしいけれども熱い思いのあふれた、若い友情をうまく描写した傑作だと思うのだ.

近藤誠逝去

2022年8月13日、医師の近藤誠が虚血性心疾患のため逝去.73歳.

1988年、文藝春秋に「乳ガンは切らずに治る」を寄稿.この頃は毎月文藝春秋を買っていたから記事は見ているはずだが印象には残っていない.その名を意識したのは、1996年の「患者よ、がんと闘うな」だ.

非常に大雑把に要約すると、がんが見つかっても下手に治療をする方が死期を早めるという論.がんを取るために内臓を大きく切り取ったら、健康で長生きできるわけがない.著名人の誰それさんも誰それさんも、手術をしなければもっと長生きできた、とあちこちで盛んに主張していた.

興味深いが、もとより素人の自分に正邪は判断できない.専門は違うが、友人に医師免許を持っている人がいたので、意見を聞いたことがある.彼女も、よくはわからないが、本を読む限りは正しいような気がする、と言っていた.

年を経るごとに過激になっていった印象がある.多くの医師からは批判を浴び、近藤理論にかぶれた人が検査を受けなかったり治療を拒否したりしたため、治る癌も治らなくなった患者が続出したとか.医学に大きな功績を残した人だが途中から闇落ちした、という人もいた.須賀原洋行の「天国ニョーボ」を読むと、標準治療で治る見込みがなくなると、多くの医師が近藤理論に近いことを言い出すという.

現在の、新型コロナのワクチンの良し悪しも同じ.科学者であるはずの医師の間で、ここまで真っ向から判断が分かれるのはどうしてなのか.素人は何を信じればいいのか.

山本コウタロー逝去

2022年7月4日、歌手の山本コウタローが脳内出血のため逝去.73歳.

私が山本コウタローを知ったのは1970年.「走れコウタロー」が大ヒットした.歌は好きで覚え、中のセリフも必死で早口の練習をした.ただ、歌っているバンドが「ソルティ・シュガー」という名前だったなんて知らなかったし、「コウタロー」という馬の名前がリーダーの名前から取ったものだということも知らなかった.

それから何十年か飛ぶ.ある時、頭の中に、哀愁を帯びた美しいメロディが流れた.何かの曲のイントロか間奏だと思うが、何の曲だろう、知っているはずの曲だが、思い出せない、というもどかしい状況に陥った.それから数年、そのメロディは時折思い出され、そのたびに悩み、結局わからないまま終わる.そういうことを繰り返した.せっかくの美しいメロディなのに、数小節で終わってしまい、最後まで聞けないのが何より残念だった.

そんなある日、カラオケでどなたかが「岬めぐり」を歌った.その時に「これだっ!」と叫んだ.この曲のイントロだった.「岬めぐり」が、詩も曲もすばらしい、名曲であることは疑いの余地がないが、この曲で最も美しいのはイントロのフルート(よりは音が高い、何の楽器だろう、リコーダー?)のメロディではあるまいか.

山本コウタローについては多くを知っているわけではない.彼が一橋大学を卒業する時、卒論で吉田拓郎を書いたこと.その翌年、山本は吉田由美子と結婚式を挙げたが、その仲人を吉田拓郎・佳子夫妻が務めたこと.吉田拓郎四角佳子と1975年の末に離婚しているので、これが夫婦共同で公的に行なう最後の「仕事」だったかも知れないこと.

結局のところ、自分にとっては「走れコウタロー」と「岬めぐり」の人なのだ.それで十分だ.