Adminではないけれど [隠居生活編]

主に無職の身辺雑記、たまに若い頃の自慢話。

なぜ松本隆は作詞家になったのか

2020年は松本隆の作詞家生活50周年.さまざまなイベントが行なわれた.本人のドラム演奏も披露された.インタビューがいろいろな媒体で組まれ、テレビ放映されたりした.これまで知らなかったことも多く、興味深く感じた.が、それらを見聞きしてなお、わからないことがある.それは、松本隆はっぴいえんど解散後、作詞家になった理由だ.

最初はプロデューサーを志していたはず.私の手許には岡林信康の「金色のライオン」「誰ぞこの子に愛の手を」がある.どちらもプロデューサーが松本隆であると明記されている.この時代、プロデュース担当を明記するのは珍しかった.そもそもそういう役割が認識されていたかどうかは疑わしい*1.松本は自己主張し、プロデューサーの役割を明確に打ち出した.それだけでも存在価値はあった.アルバムの出来も決して悪くはない.が、プロデューサー松本隆はそれっきりだった.のちに松本隆は「プロデューサーとしては食っていけなかった」と語っているが、自分が気になるのはその先.

はっぴいえんど解散の時点で、松本隆の本職はドラマーだ.実際、その後もいくつかのセッションにドラマーとして参加している.音楽業界で生きて行くならば、ドラマーを続けるのがもっとも自然ではないか.だから本当の疑問は、なぜドラマーを辞めたのか、だ.

これは、はっぴいえんどからキャラメル・ママへのメンバーの変遷にも関わっている.

はっぴいえんど解散後、細野晴臣鈴木茂は、松本隆大瀧詠一の代わりに林立夫松任谷正隆を迎えてキャラメル・ママを結成した.はっぴいえんどは自ら曲を作って、ステージで歌い、レコードを発表すると同時に、他人のバックも積極的に務めた.岡林信康加川良遠藤賢司高田渡らのレコードではっぴいえんどの演奏を聴くことができる.キャラメル・ママはバンドとしての活動より、プロデュース&演奏業を深化させていくことを目指した(と自分は解釈している).その代表は荒井由実

はっぴいえんど末期は、細野と大瀧は音楽性の違いからぶつかることが多かったという.このふたりが離れるのは必然.また、楽器構成でいうなら、音の幅を広げるためにはキーボーディストは必須.松任谷正隆は編曲家として頭角を現わしていたから「この人と組んでみたい」と思ったということなのだろうが、ではドラマーを松本隆から林立夫に替えたのはなぜだろう.

松本隆は、ドラマーとしては第一線のレベルではなかったのではないか、という仮説を立てている.しかし自分には判断できない.はっぴいえんど時代の松本は、林立夫などと比べると荒削りのような気もするが、「金色のライオン」における演奏技術は相当に高いようにも思える.松本の演奏技術を批判する声は聞いたことがない.しかし、細野晴臣鈴木茂が、キャラメル・ママとは別に、演奏家として引っ張りだこだったことを考えると、一流のドラマーであれば、本人にその気がなくても依頼が殺到したと思うのだ.

大御所の松本に批判的なことは言えないのかも知れないが、ドラマーを続けなかった(続けられなかった)理由を、誰か解き明かしてほしいと切に願う.

*1:例えば、泉谷しげるが1972年にリリースしたアルバム「春夏秋冬」は、CDで再発された時は「加藤和彦プロデュースによる歴史的名盤」というキャッチが入ったが、レコードにはそのような記載はなく、加藤和彦の名前はエンジニアとして記されているのみである.あとから振り返って「あの時加藤がやっていたのは、今でいうプロデューサーだね」ということになったのだろう.