1972年、チューリップというバンドが「魔法の黄色い靴」でデビューした.ギターのイントロが美しく、詞も曲も練りに練った作品だが、ヒットには到らず.二曲目の「一人の部屋」は、一転して詞も曲もシンプルなものだったが、ヒットせず.三曲目もダメなら諦めて博多に帰るしかない、という状況だったという.
「魔法の黄色い靴」も「一人の部屋」も、作詞・作曲とも財津和夫の手によるものであり、リードボーカルも財津が取っている.三枚目のシングル「心の旅」も、財津が作詞・作曲し、ボーカルも担当するつもりでいた.が、レコーディング当日になって、ボーカルは姫野達也でいくようプロデューサーの新田和長から指示された.新田は何かを変える必要性を感じ、甘いマスクと声で若い女性に人気のあった姫野の起用を思いついたのだろう.姫野も驚いたというが、財津は相当に悔しかったようだ.
こうしてリリースされた「心の旅」は大ヒット.チューリップは一躍人気バンドとなる.問題はこのあと.
第四弾となる「夏色のおもいで」は、ボーカルを姫野でいくことは早くから決まっていた.作詞・作曲は財津が手がけたが、詞にダメが出た.何度か書き直したのかも知れないが、OKが出ず、外部の作詞家に依頼することになる.依頼されたのは松本隆.
松本隆なら文句はないじゃないかとうっかり考えそうだが、この時の松本は24歳の若者で、これが作詞家デビュー.「心の旅」という大ヒット曲を書いた財津和夫の代わりに、何の実績もない新人が起用されたわけだ.これは意外過ぎる起用だと思うのだが、その理由はなんだったのか.
「心の旅」で固定ファンがついた.抜群の名曲でなくても、そこそこヒットはするだろう.チューリップの大黒柱である財津のプライドを考えるならば、彼に書かせるべきだったのではないか.せめてバンドのメンバーの安部俊幸や、既に実績のある作詞家(安井かずみ、山上路夫、岡本おさみなど)であれば、まだ納得できたかも知れない(それでも腹立たしかったろうが)。
「夏色のおもいで」は、悪い曲ではない.が、サビから始まる構成しかり、「心の旅」の二匹目の泥鰌を狙っているのはミエミエ.ボツをくらった財津の詞がどういうものかはわからないが、リスクを冒してまで取るべき道ではなかったように思う.
松本隆は、これがプロ作詞家デビューだったが、本作を筒美京平に絶賛されたことで自信をつけ、その後の筒美京平との黄金コンビ結成につながった.財津の側から見れば屈辱的な出来事だっただろうが、日本音楽史上、最高の作詞家を生み出すきっかけになったのだ.
リンク
- チューリップ「夏色のおもいで」色使いの名人 松本隆の職業作詞家デビュー作!(リマインダー、2021-07-15)
- 【作詞家50年】「僕か出会った天才作曲家たち」(松本隆)(文藝春秋、2021-04-07)